WildMarkの産声


ワシがルアーを作ることになった経緯と併せて、今までの釣り人生をここに記します。予め断っておきますが少々長くなります。

ワシが釣りと出会ったのは小学生の頃。
友人I(以下I)の父親について行っては、雑魚釣りをしていた。

ある日、Iの家で遊んでいたときに、とある本に出会う。
その本にはルアー釣りなる釣り方が載っていて、なんでもブラックバスという大変引きの強い魚が釣れると書いてあるのだ。
しかも、そのブラックバスはいつも餌釣りをしている印旛沼で釣れるらしい。

未だ見たことのない魚と釣り方にロックオンされてしまったワシらは、少ないお小遣いを握りしめ、釣具屋へ走った。
そこで小型のスピニングリールと竿、それと今思えば妙に硬いコリコリしたツインテールグラブとジグヘッドのセットを買った。

それからというもの、自転車で爆走し一時間半かけて印旛沼に行っては一日中コリコリグラブを投げる日が続いた…が、ブラックバスは釣れなかった。

それからどれ位経っただろうか。記憶は定かではないが、あまりに釣れないワシらを不憫に思ったのかIの父親が『あの』雄蛇ヶ池へ連れて行ってくれた。
ワシらはその日に初めてブラックバスを目にすることになる。
まだ肌寒い三月に、ボートまで借りて一日中釣り続けたのにいつも通り全く釣れないワシら…。

『また釣れなかった…。』
そんなことを思いながら桟橋で片付けを始めていると、ボート屋のおっちゃんがワシらに言った。
『ここ(桟橋)でそいつ(コリコリグラブ)をしゃくってみな。』
半信半疑…いや、零信十疑だっただろう。
ところが、しばらく桟橋でコリコリグラブをしゃくっていると、Iの竿がもの凄い勢いで水中に絞り込まれた。
夢中でリールを巻くI。
今でもはっきり覚えている、というか焼きついている。
上がってきたのは大きなブラックバス。43センチもあった。

ワシが初バスを釣るのはまだ先になるのだが、これがワシらのブラックバスとの初めての出会いだった。

中学生になったワシらは、相変わらず印旛沼へ通い続けていた。
ある日の早朝、釣場に到着し、朝もやの中お気に入りのルアーを結んだ。
ヨーヅリ(多分…)のスナップシャッドである。
今にして思えば管理釣場用に販売されていた小さいシャッドなのだが…。

投げ始めて数投目、回収寸前のルアーの背後に見慣れない波紋が残った。
『なんだろう、今の?』
疑問に思いつつ、次のキャスト。へっぽこキャストだった。
巻き始めてすぐに竿先に生命感を感じる。
『食った!食った!』
ワシは思わず叫んでいた。
バシャバシャと水面で暴れる魚はいつか見たブラックバス。
慌ててリールを巻き続け、気付いたときには釣り上がっていた。
サイズこそ26センチと小振りだったが、その歓喜といったら今まで味わったことのないものだった。
ワシの初バスはミスキャストから生まれたのである。

実は記憶が定かではないのだが、この頃かそれよりももう少し前に、Iの家でハンドメイドルアーの作り方を初めて知る。
かなり古い本だったと記憶しているが、バルサ材なるものを使用したミノーやクランクベイトの作り方が記載されていた。
二人ともお金のない子供だったわけで『作れば安上がり』程度の気持ちでルアーを作り始めた。

バルサ材?ステンレス線?セルロース?
結局分からないことばかりだったので、代用品を探すことになる。
まず、近所の工事現場へ行き、端材を頂いた。
ステンレス線の代わりに、家にあった太い針金を用意した。
ウエイトはガン玉。リップはルアーケースの仕切り板。塗料は絵の具。コーティングは粘土用のニス。
こんな具合で材料を揃えていった。
最初に作ったのはミノーとクランクベイト。どちらもヤスリがけが足りずにボコボコしていた。

コイツらをデビューさせたのは印旛新川。
緊張の一投目…。
ミノーは回転しながら帰ってきた…。
クランクベイトはブリブリと泳いでくれた。しかも小生意気にラトルイン。
このルアーでバスを釣ることはできなかったが、これがすべてのはじまりとなる。

ハンドメイド熱はすぐに加熱し、ワシらはすぐにメーカー名を考えた。
『石崎クラフト』
Iとワシの苗字を併せた『石崎』に○○クラフトのパクリ。我ながら安易なネーミングだった。
また、英字綴りで『IShIZAKI CRAFT』
なぜか『 h 』だけが小文字綴りで間違って書いてしまったのだが、敢えてそのまま使用していた。
そして、この頃のワシは将来釣具屋になるつもりでいた。

商品も作った。
シールタイプのアイをビニールテープで作り『石崎アイ』と命名。
しかも『コミカルアイ』と『オトボケアイ』の2タイプを展開した。
12枚入って15円という、子供ならではの価格設定。
これは今でも手元にある。
今見るとそれはそれは微笑ましい出来で。

言わずもがな、これがWildMarkの前身である。

そして丁度同時期に空前のバスブームがやってくる。
釣り番組は毎週のようにバスフィッシング。
芸能人もバスフィッシング。
このあたりの話は、わざわざワシが語ることでもないので省略するが。

そんな大きなうねり(大げさか?)に揉まれながら、ワシらは高校生になった。
残念なことにIとは別の高校に進学したため、この三年間は疎遠になる。
どうしても釣りに行きたいワシは部活に入らず、同級生を釣りに引き込んでいった。

幸いにして釣り仲間には恵まれた。というか、全ての環境に恵まれていた。
担任のT先生は、今はなきTB誌の表紙を描いていたY画伯の恩師ということもあり、バス釣りに対する理解があったし、テストの設問にブラックバス問題を絡めてくるM先生など、なかなかパンチのきいた先生もいた。

ハンドメイドルアーの製作は仲間との共同作業により、更に盛り上がりを見せる。

当時、仲間内で流行ったのがスピナーベイト。
これを作るためには金型が必要なのだが、そんな高価な物を買うお金があるはずもなく、モルタルで型を作ったりもした。
ジグスピナーからブレードを拝借するなどして、1個単価200円程度の材料費で作っていた。 なかなかのやり繰り上手だったようだ。

そんなこんなで、種々のルアーに手を付けたワシらだったが、結局行き着いたのはプラグだった。
中でもトップウォータープラグ。
細かいことを気にしなければとりあえず動くので作りやすかったというのもあるが…。

ある日、片割れが近所の調整池でダーターのスイムテストをしていると、ある人が話しかけてきた。
『君もビルダーなの?』
その人は上から下までズイール一色。ズイーラーというやつだ。
自身もルアービルダーだと言い、キレイなハンドメイドルアーを見せてくれた。

それからというもの、その人にくっついて行っては、ルアーの作り方を教わったり、良く釣れるというルアーを教えて貰ったりした。
この頃からトッパーに傾倒していったように記憶している。

そして、仲間内でも少しずつ変わり始めたことがあった。
『IShIZAKI CRAFT』ではない名前に変えようか?という話がちらほら。あまりに安易だったので。
もちろん、これはこれで思い入れがたくさんあるのだが。

バカ話の中でネタ半分のネーミング案も多々あったが、当時、結構無茶な釣りを強行していた自分達の性質と合わせて『野性』は外せないよなぁ、という方向で意見は一致した。
『野生』ではなく『野性』。
多くの人はもはや野に生きることはできない。
でも、そんな自分達のルーツである『野生』に少しでも近づくために『野性』は失わないように、という想いを込めて『野性印』。

こうして『WildMark』は世に産声を上げた。

確か、こんな産声だった。

『かぁちゃん、メシ。』




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